歴史

由来

大内宿は、会津城下と下野の国(しもつけのくに)(栃木県日光市今市)を結ぶ全長130キロメートル(32里の区間)の中で会津城下から3番目の宿駅として1640年ごろに整備された宿場町です。

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会津西街道は関東側からの呼称で、会津側からは下野街道(しもつけかいどう)あるいは南山通り(みなみやまどおり)とも称されていた。、会津藩主の18回に及ぶ江戸参勤と江戸廻米の輸送と、当時会津藩と友好関係にあった米沢藩・新発田藩なども頻繁に利用した重要路線でした。

また、以前の記録では天正18年(1590年)伊達政宗の小田原参陣、同年の豊臣秀吉の奥羽仕置きに当宿場を通行した記録があります。





高倉以仁王・ウィキペディアより

更に遡って山本村から大内と改められた経緯は、後白河天皇の第三皇子だが、『平家物語』では兄の守覚法親王が仏門に入ったため第二皇子とされている。 
高倉以仁王(たかくら もちひとおう)は、平家物語では1180年源頼政の勧めで平家を倒すため令旨を発し、兵を挙げたが宇治平等院での戦いで敗れ、渡部唱等と越後国小国の頼之を頼って逃亡した。
その途中、当時の山本村(現在の大内宿)に逗留され「高峰の風吹き戻す山本にこころとどめし道しるべして」と詠い、この里が宮中の大内(だいり)によく似ているため大内と改めたといわれる。



高倉神社

王子を高倉大明神として観請し明治3年5月18日高倉神社と改めて今もなお、村の鎮守として祭られています。
以前は、高倉以仁王(たかくら もちひとおう)を敬い5月に祭礼を行っていたが、田植えに時期と重なり大変忙しいため、一年の半分である半夏に祭りが移されて現在の「半夏祭り」となりました。
この辺りでは、雪が多いため田植えの時期が遅く、「半夏祭り」までは田植えを済ませる様にとなりました。





街道沿いの宿場

若松城下 - ①福永宿 - ②関山宿 - (氷玉峠) - (大内峠・標高920m) - ③大内宿 - (中山峠) - ④倉谷宿 - (八幡峠) - ⑤楢原宿 - ⑥田島宿 - ⑦川島宿 - ⑧糸沢宿 - (山王峠・標高935m)- ⑨横川宿 - ⑨中三依宿 -(高原峠・標高1,200m)- ⑩五十里宿 - ⑪高原新田宿 - ⑫藤原宿 - ⑬大原宿 - ⑭高徳宿 - ⑮大桑宿 - ⑯今市宿

下野街道
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国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定されるまでの経緯

昭和42年 会津茅職人の調査に訪れた武蔵野美術大学の相沢教授(当時学生)が強く保存の必要を村に訴えたましたが、村は賛成と反対との意見に2分されました。

しかし、相沢教授の熱心な説得と当時の大塚実町長が時間をかけて説得に当たり昭和50年文化財保護法の改正を経て、
昭和56年4月18日 重要伝統的建造物群の指定を受けることに至りました。

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現在

通年を通し約80万人の観光客が訪れるようになった今は殆どの家でお土産店または蕎麦屋等の店へと変わり、農業から観光産業へと完全に切り替わってきました。

この大切な村・宿場の景観を未来の子供たちに引き継いで行くために、住民憲章を作り「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り景観の保存にと伝統的な屋根葺きの技術習得、継承に全員で取り組んでいます。

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